国民覚醒の兆候

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  第一部 悪法降臨編  

■第四話  発端

人権擁護法案反対運動はいつ始まったのか、それは昨年3月とも言われますし、あるいは2月から始めていたとも言われます。たいていの当時からの生き残りコテハンにとっては3月からというのが一般的認識なのでしょうが、実際は2月からビラ配りなどは行われていたとか、ブログでの警告がもっと早くになされていたとも諸説言われます。
最初にこの法案のヤバさを告発したのは誰なのか?一般ネットユーザーが気づいたとか、共産党であるとか、いろいろ説はあります。
ただこの反対運動が大きく広がったきっかけは、3月10日における自民党法務部会における城内・古川・古屋議員らによる異議申し立てであり、それに先立ち、3月8日の夜に城内氏に対してあるマスコミ関係者からのタレコミがあったことが発端であるとは城内氏が公言しています。
そしてそれに先立つ3月5日の時点で産経新聞だけが人権擁護法案に関する反対キャンペーンを開始していたという点から考えて、この「あるマスコミ関係者」とは、産経新聞関係者であった可能性が濃厚に推測されます。では誰が産経新聞にリークしたのか? これは謎です。まぁ、そんなことを推測すること自体大した意味はありません。



人権擁護法案は4年前に国会に提出され反対論が強く廃案になったものです。そんなものとほぼ同じ内容で出してくるのですから、マスコミを代表として基本的にこれに反対する勢力が存在するのは当たり前です。
また、4年前も昨年も、この法案の背景に部落解放同盟の影があったことは周知の事実であり、そうなると部落解放同盟と骨肉の争いを展開する共産党関係の諸団体がこの法案に反発するのも当然でした。
また、この法案の内容がネット規制につながるものであることに気づいた一部ネット言論人が反発したのも確かでしょう。
こうした反対論が3月以前の段階から細々と展開されていたのも事実だと思います。



ただ、それらと、3月に入ってから一気に盛り上がった反対論とは、やや趣を異にしています。
3月に入ってから盛り上がった反対論の特筆すべき特徴とは、「北朝鮮」や「拉致問題」に絡む言説の多さです。3月以前にはそうした文脈は存在せず、3月以降はそうした文脈が現れます。3月以降にこの法案への反対運動に多くの人が共感し参加したのには、こうした文脈の変化が影響を与えていると思われます。すなわち北朝鮮への警戒心、拉致問題解決への意思を強く持つ多くの国民がこの運動に参加合流するきっかけになったといえるでしょう。
3月11日の産経新聞「正論」欄における西尾幹二氏の論考は、自民党内でも回覧され、その後の反対派の形成に大きな影響を与えた文書だが、そこに描かれていたのは、北朝鮮を利して拉致問題の解決を妨げる人権擁護法案の姿であり、そのセンセーショナルな姿に多くの国民は刺激されました。かく言う私もあれには非常に影響を受け危機感を感じました。
4月以降、法案の問題点は次第に整理されていき、「国籍条項の欠落」は枝葉末節の論として後退していきますが、この3月期には実はこの「国籍条項の欠落」こそが最大の問題点としてクローズアップされていたのです。それはつまり、北朝鮮問題や拉致問題とこの法案の問題とが一体化した問題と認識されていたからでしょう。
もちろんそれは事実ですし、今でも一体化した問題であり続けているし、そう捉えて反対運動に身を投じている人も多くいます。ただ私がここで言いたいのは、3月期、つまり反対運動の開始にあたってはそれが特に強調され、それが反対運動の広がりに大いに寄与したということです。これは反対派側の仕掛け人の見事な戦略といってもいいでしょう。




ただ、それは本当に「戦略」でしかなかったのかというと、それはどうでしょう。
あるいは北朝鮮のような反日勢力からの本当に切迫した脅威があったのかもしれません。それでやむにやまれぬ防御的な言論活動を展開したところ、それによって却って反対運動が膨張したという捉え方も可能です。
実は私はこの3月期の新たな反対論の発生につながるリークは公安関係者からもたらされたのではないかと推測しています。これはあくまで推測であり、何ら証拠はありません。ただいくつか不自然な点があります。
それは、推進派勢力が当初から安倍晋三幹事長代理(当時)をこの反対運動の黒幕と見なしていたということです。どうやら実際はそういうわけではなかったようなのですが、推進派はそう思い込んでいたようです。なぜ彼らはそう思い込んだのか?自分たちのやっていることが「対北朝鮮最強硬派」である安倍氏の反発を招かないはずはないという自覚があったのではないでしょうか。
当時の彼らの言い分としては「安倍氏が自民党内の権力争いに勝つために反対運動を利用している」というものだったのですが、その後の経緯を見る限り、この反対運動が安倍氏の権力基盤を固めるには全く寄与しておらず、また、にもかかわらず安倍氏が変わらず小泉後継の最有力候補であり続けていることを見る限り、全く見当違いの意見であったことは明白です。やはり北朝鮮問題における路線対立に原因があったと考えるほうが自然だといえるでしょう。
いや、それはもう路線対立なんていう穏便なものではなく、明白な利敵行為と、それを阻もうとする救国戦線との戦いであったのではないでしょうか。




安倍氏といえば、昨年1月12日に端を発した朝日新聞捏造報道事件のターゲットとなった人です。この事件の背後にも北朝鮮が存在します。少なくとも安倍氏は当時そのことを厳しく指摘していました。
そしてその事件が解決しないうちにこの人権擁護法案が提出され、それについても北朝鮮絡みで異議申し立てがなされ、それに安倍氏も同調しました。
朝日新聞捏造報道事件の発端となった長井プロデューサーと本田記者との接触は一昨年11月のことであり、そして人権擁護法案の再提出へ向けての動きが本格的に始まったのも一昨年の11月です。部落解放同盟の関係者が与野党の担当者に接触して法案提出へと意見を集約していきました。
一昨年の11月といえば、初旬にアメリカ大統領選挙でブッシュ氏が再選され、極東における米中宥和、米朝宥和が遠のき、それに対抗した形で、シナ原潜の日本領海侵犯事件が起き、また、北朝鮮による横田めぐみさんの偽遺骨事件も起きました。
また、瑣末なことですが、9月に南京大虐殺の荒唐無稽なプロパガンダを垂れ流したことが原因でネット上で大騒ぎになっていた本宮ひろ志の「国が燃える」という漫画が休載を決定したのもこの11月のことでした。11月末には香田青年のイラクでの殺害事件が起きましたが、日本国民は反戦的反米的な左翼扇動に全く反応しませんでした。
こうした国民世論の流れは一昨年4月のイラク人質事件や、同じく8月のアジアカップ騒動以降、ネット空間を中心に形成されたものであり、それが頂点に達して、もはや日本国民世論が左翼やシナ、朝鮮など特定アジアの工作によって操作され得ないということがほぼ決定的になったのが一昨年の11月だったといえるでしょう。(まぁだからといって自立しているのではないのだが)
そういった逆風の中、唯一望みを繋いでいたケリー大統領誕生の夢まで潰えて、シナや朝鮮が対日戦略を強硬路線にシフトして、この一昨年11月以降、積極的にやや手荒な工作活動を展開するようになってきた。ハード路線に変わったという印象を受けます。昨年4月から5月に大騒ぎとなったシナにおける反日デモ(暴動になってしまったが)の準備が開始されたのもこの時期といわれます。
そうした一連の流れの中でこの人権擁護法案の再提出の流れの開始という事象を見る必要があるかもしれません。この法案の作成段階で北朝鮮の謀略が関与しているのは明白であり、少なくとも安倍氏はそれに気づいており、安倍氏がそれに気づいていることを認識している推進派もいたのはほぼ間違いないと思います。
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